2019/09/20

古着屋になるまで 【part1】

 こんにちはkinjiです。

8月末から先日まで買い付けに行ってて気分的に今回はアメリカでブログを書こうと思っていたのですが、毎日全力で買い付けをしていて夜に全くその余裕もなく死んだように寝ていたので結局帰国してから書いています。

 ちなみに今回の買い付け商品は今週末の大阪POP-UPイベントにたくさん持っていきます!

 東京の店舗にはその後にどかっと大量入荷するので宜しくお願いします!

 余談ですが、僕のインスタでご存知の方もいるかも知れませんが、今回帰国した日が台風15号の通り過ぎた次の日で成田空港は交通機関が完全にストップ!?していて15時頃に日本についたのですが結局その日は帰れず空港に一泊する事になりました。

 泊まるといってもエントランスフロアーの床や椅子で寝るって感じで決して心地よい環境では無くて早く帰りたいし泣きたい気持ちを一旦忘れて仏のような心で過ごしました。

実は成田空港に泊まるのは今回が2度目で、1度目は8年前の東日本大震災の時でした。

関空からLAに行く成田経由の便で乗り継ぎの時に地震のタイミングと重なって…。

まぁ偶然というか引き寄せられているのか自然災害の時に成田空港にいる確率が何故か高いんですよねw

2度目なのでその経験もあり冷静で過ごせましたが、3度目はできれば無いことを祈るばかりです。

 

それでは今回は相談や質問などで

「どうしたらバイヤーになれますか?」

 といった内容の事を聞かれる事があるので、僕の話はあまり参考にならないと思いますが、自分の経験やバイヤーになるまでの経緯、思いなど今回は書いてみようかなと思います。

 

 

どうしたらバイヤーになれるのか?

正直言えばあまりこれが正解!とか、この方法がオススメ!とかもありません。

一般的に言えば自分の好きなテイストの古着屋で働き、そこで何年か働いてバイヤーの道を目指す。

というのが多いのではないでしょうか?

今の時代だと全く経験なくいきなり仕入れに行ってオンラインショップをスタートするってゆうのも聞きますね。

今こうしてお店を構えていると、昔からの夢だったの?いつか独立しようと準備していたの?

など聞かれたりしますが、昔は全然お店を出そうとか夢にも思ってもいませんでした。

僕の場合は少し変わっていて、バイヤーになったのも偶然の流れだったし独立しようと思ったのもパンクケイクをやる直前の事だったし、そしてどれも小さなきっかけからでした。

そもそもの始まりは20代の時ずっと働いていたアパレルの会社が新品と古着も取り扱っているお店だったので初めはアルバイトで店頭スタッフとして普通に働いていて1年くらい経った頃にバイヤーやってみない?と突然上司から声をかけてもらいそこからバイイングのキャリアをスタートさせました。

当時はまだ20歳くらいで、しかも古着の知識もなく何となく古着も着てみようかな〜とちょっと触りだしたくらいの時期でバイヤーというものに憧れもなく、そもそもそんな仕事の存在すら意識した事もなかったです。バイヤーって何?みたいな。

ただ何となくいいかもな〜って感じで、しかもタダでアメリカに行けるの?ラッキー!!みたいな全くもって不純な動機でやる事にしました。その頃はまだ若かったのでノリで生きている感じだったので。

大した能力もなくただ元気が取り柄みたいな人だったので、なんでバイヤーへ誘われたか不思議でした。

でも、今思えばその時の何となくの決断が間違いなく今の自分に繋がっているので 人生は時にはノリで、流れに身を任せて漂って行くのも良いのかも知れません。

今の僕を直接知ってくれている人はこうして若い頃の自分の話をすると今のイメージと全然違うみたいでよくビックリされます。

僕もその時に比べると大人になったなと自分でも思います。

実際20歳くらいの頃までは本当に何にも考えていなくて、その日が楽しければなんでもいいやって感じだったし責任感も無く自分勝手で自己中で(これは今もか)仕事も何となくしていたしバイト代もほとんど毎日の飲み代や買い物とかに消えていくし将来の夢や野望もなくなんとなく生きてました。

そもそも僕は高校を卒業した後、進学もぜず就職もせず実家にいてバイトもせずのただのニートだったし

毎日家にいるだけで暇すぎるから流石にアルバイト始めたけどその職場(ガソリンスタンドだった)の先輩で元ヤンみたいなお姉さんが苦手すぎて(何かと他人の愚痴をずっと言い続けるような人だった)すぐ辞めたし、その後家の電話代が高すぎて(また暇になって友達と毎日電話していたから)親に怒られ(当たり前)逆ギレして(本当にバカ)それで家出しました。笑

少しのお金と小さいバッグ一つで地元の山口を出て福岡の同郷の友達の家に転がり込んでそのまま何年も帰らず家に連絡をしない…といった親不孝すぎる若者でした。

本当その頃はめちゃくちゃダメ人生でした。

福岡に行った後ラーメン屋や居酒屋などいくつかバイトを転々として何年か後に最初に話していた古着屋さんで働く事になるのですが、まだここまででバイヤーになれる要素はゼロですね。笑 

そこでようやくちょっとだけ落ち着いてそのお店で真面目に働き出しました(多分遅刻は何度かしていたけど真面目だったとは思う)ラッキーな事に楽しい同僚や上司に恵まれて良い職場でした。

この頃に家出したまま連絡を取らなかった親とも連絡をして仲直りをして、ちょうど福岡に来た姉と二人暮らしをしだしたり 少しだけマシな人間になってきました。(多分)

でもまだ仕事の事より夜の飲み会の方が大切で、ムードメーカー的な役割としてその時の方がテンション高めで頑張っていました。笑

それでその後まだそんな適当な人生を満喫している僕が突然バイヤーに誘われた理由は、こいつと飲みに行くと面白い!?という訳ではなく

その頃が2001年でまだまだ古着全盛期の名残りでとにかくいい古着はあればあるだけ売れる!みたいな時代で、でも売れる分仕入れは全然追いついていなくて、新しくバイヤーを入れても仕事がハードでどんどん辞めていく状況でバイヤー不足だったんです。

そんなタイミングだったのでそこまで採用基準が高くなくて、とにかくやる気のある人を集めろ!みたいな感じ。

バイヤーとしてのセンスや知識みたいな部分はあまり問わずに、こいつは元気だしガッツもありそう、という体育会系ようなノリで声をかけてもらい(本当は何か光るものもあったのかも?笑)バイヤーになれました。

最初にも言いましたが本当に参考にならないストーリーですいません。

それで福岡から本社の京都に転勤になり引っ越したのですがバイヤーと言っても全然華やかな道ではなくむしろ裏方で地味でかなりハードでした。

ただ僕の適当人生はこの頃から終わりを迎えて急速に変化していきました。

まず京都には仲の良い同僚もいないし友達もいないし完全にアウェイな空気

本社なのでやたら人が多くしかも皆初めましてだし、割と社交的と思っていた自分も案外そうでも無いことに気づいたりして色々不安で孤独なスタートでした。

急な引っ越しだったので最初会社の方で住むアパートを準備してくれていたのですがそれが本社ビルの真隣で(嫌がらせ?笑)本社のベランダと自宅のベランダがちょうど隣で間が1mも離れていない感じで濯物を干していたら会社の誰かと目が合う感じの部屋でした。

しかも同じ境遇の新人バイヤーと2人暮らし。店長会などの時期は10人くらい家に泊まりに来たりと、プライベートも無い合宿所みたいな環境。

仕事の方はいきなり海外出張ではなく最初は倉庫の商品管理的な業務ばかりでやる事すべて初めてだし何をどうしていいかさっぱり分からなくて慣れるまでは毎日しんどかったです。

それでひと月くらい経ってやっと初めての買い付けに連れて行ってもらう事になったのですが、ここでまたツライ現実の壁にぶち当たります。

ノリでホイホイ来たお気楽な僕ちゃんだったので本当に何にも古着の事を分かってなくて、いざアメリカへ行き古着をピックする時、膨大な服の中から何を選んでいいのか分からず愕然としました。

今までお店で何をしてきたんだろう?何を見てきたんどろう?

と後悔しましたが時すでに遅し。

毎日ダメ出し。

サイズが悪い、形が良く無い、ダメージがある、可愛くない、これ売れるの?って物しか選べない自分。

何も積み重ねてこなかった自分にはセンスも実力もなく

だんだん上司にも萎縮して全然商品がピックできなくて本当逃げ出したかったです。

でも現実的にアメリカだし逃げ出せない。(出張に行けば長ければ1ヶ月くらいはアメリカの色々な都市をぐるぐる回ってました)

来る前はまあ何とかなるでしょ〜!みたいな変な自信があった気がしたけどそんなのも一瞬でなくなりました。

その1回目、次の2回目とその後も何度か買い付けに行きましたが、今まで頑張ってこなかったツケもあっていきなり急成長するはずもなく何で今自分こんな事してるんだろ?とか考えたり辛い日々を過ごしていきました。

ただそれでも今良かったと思う事は、どんなに辛くてもこの仕事を辞めなかった事です。

 

 

2、3ヶ月経って本当に少しだけ慣れてきたとき次はアメリカに住み込みのチームに入ることになりました。

すでに福岡時代の適当な自分ではありませんでしたが、大きく変わったのはここからでした。

アメリカに住むって聞いた感じはカッコイイというか凄いキラキラした感じなのですが現実はそんなこともなく周りの噂でそこは<監獄>とか<地獄>とか言われていました。笑

そんなひどい所だって事は実際に行くって決めた後に聞きましたが、そこに行くオファーを何人も断ったとか、今までたくさん送り込んで1ヶ月持たない人ばかりとかで、まだその頃もそこまで仲の良い同僚がいなかったので、え?何で誰も先にそれ教えてくれなかったの?って思いましたね。

周りのみんなライバルか敵、もしくは無関心みないな空気があって(多分それはその頃の僕が追い詰められてて勝手にそう思い込んでただけなんですが)当時はずっとそう思っていました。

とにかく行くって引き受けちゃったので、アメリカに住み込みで生活するようになりました。

噂通りだったのか今思えばそこまで大変だったかどうか昔の記憶なので判断はできませんが、とにかくひたすら毎日毎日朝から晩まで仕入れしていました。

一番苦痛だったのは超苦手な英語での会話でした。電話でアポイント取るときとかも相手が何を言ってるか全然分からなくて本当に英語が超ストレスでした。(今でも片言です)

もちろん楽ではないし辛い部分もありましたが、でも全然地獄なんて思わなかった気がします。

多分、もう何が大変とか辛いとかじっくり考える余裕もなくて日々の仕事に追われて頭を常にフル回転してなきゃ生きていけない感じだったんだと思います。

朝起きて仕事して疲れて次の日の準備をして寝る。これの繰り返し。それが良かったんですね。

何ヶ月かそうして頑張っていて、まだまだ怒られる事や不安な事もあったりしましたが出来ることが増えてきて、不思議とだんだん仕事が楽しくなってきたんです。

そしたら自然とやりがいも感じて仕事への責任も持ててきました。 

もう一つその時の上司の影響も大きかったです。あまり言葉で多くを教えてくれないし(自分で考えて動いてって感じのスタンス) 厳しい人で、周りには冷血人間とか呼ばれている人でしたが僕はその人の教え方や仕事以外の時間の接してくれる雰囲気など好きでした。

だから小さな事だったと思うけど褒めてもらった時とても嬉しくてもっと褒めてもらうために自分の能力以上に仕事を頑張ったりしましたね。

そこでとにかくがむしゃらに頑張っていたらあっという間に1年くらい経っていました。

もうその頃は仕事が楽しくて昔の面影はありませんでした。

その後日本に帰ってきてからもそのまま突っ走って20代は自分でもよく働いたって思うくらいバリバリ働きまくって様々な経験をさせてもらいました。

もし家出していなかったら?

あの時この会社に入れなかったら?

バイヤーとしてアメリカに行く事を選ばなかったら?

仕事がキツくて辞めていたら?

本当に色々な選択が折り重なって今の自分がいます。

夢があることもとっても素敵だと思います!

でも夢がない人でも流されて生きていくのも良い事だと僕は思っています。

 

 

 

 

これから進路を決めていく人、今の仕事で悩んでいる人、夢に向かっている人、色々な道があると思います。

今の一つ一つの決断が良くも悪くもこれからの未来に繋がっていると思います。

ちょっと勇気を持って決断する事や、友達や信頼できる人に相談する事で前向きになれたり良い変化が起こる事もあると思います。

僕のこんな経験が少しでも何かの後押しになったりすれば幸いです。

そしてこれから独立を思い立つのはこの後30代になってからですが…

ここまでが思った以上に長くなってしまったので一旦今回はここまでで終わりますね。笑

 

続きはまたパート2として書きます!

良かったら読んでみて下さい。

 

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